ゲームとしての人生

弱キャラ友崎くん』を観て。

人生をゲームとして見た時、一番問題となるのは、勝利条件についてだと思う。

獲得ゴールドだと思う者も居れば、勝利の数、世界を救う、伝説のドラゴンを倒す、気の置けない伴侶を得る等プレイヤーに刷り込まれた価値観、コンプレックスの数だけ目的のバリエーションがある。

そして、それらのプレイヤーが適切なクラスタに分けられる事なく同一システム内に混在している。

目的が同じプレイヤーがライバルになるだけでなく、目的の異なる者同士がしばしば互いを異分子として排除しようとする。

最終評価は自己満足だが、それぞれのクラスタ内では明確な価値基準があり、その中で優劣が付けられる。

全体像は混沌だが、選んだ勝利条件によっては、その個人にとって至極シンプルなゲームともなり得る。

 

プログラムは、あるいはボードゲームの設計は常に価値から始まるが、物理的存在が初めにある実世界にとって、『価値』とは生存に有利であったものの獲得した判断基準の集積でしか無い。

何を『価値』とした者が効率よく再生産を拡大させたか、勝利者の戦略でしかない。

そして、生存戦略は一つが場を支配できない。

融和的な個体が多い場では敵対的な個体が有利となり、敵対的な個体ばかりの場では融和的小集団はその強みを発揮する。

多様性は現実世界の宿命である。

 

ゲームとして人生を捉えて、ゲームオーバーまでの期間に最大の自己満足を追求するか、仏教のように、来るべき終わりに備えてゲームを終えるための準備を整えるか、そこも含めて人生は人生である。

ルールがあり、勝利条件があるのがゲームなら、ルールがあるかどうか、勝利条件があるかどうかもプレイヤー次第なのが人生である。

つまり、人生はゲームではない。

人生はゲームを含む。

自由度の高さを価値とする者には、当然いかなるゲームより価値の高いものである。